紡がれる糸と谷崎潤一郎 幻の谷崎邸「鎖瀾閣」VR化の挑戦

文化事業紹介


私は、われわれが既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐のきを深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。

ー谷崎潤一郎『陰影礼賛』


こんにちは、宮寺理美です。
先日、7月30日は谷崎潤一郎の命日でした。
谷崎潤一郎の活躍した時代から遥かな月日が流れている、と感じる方もいるかもしれませんが、
実は谷崎潤一郎が亡くなったのは1965年です。意外に最近ですよね。

私がもし「好きな文豪は?」という質問に答えるなら、太宰治、そしてもう一人、谷崎潤一郎と答えます。
特に衝撃を受けたのは『陰翳礼讃』です。
明治~大正時代前後の文化やファッションに興味のある私にとって、「日本独自の暗さ」という視点で書かれた『陰翳礼讃』は衝撃だったんです。
暗さの中で培われた美意識、それを言語化できるスキル。
普通に書かれた文章なら、恐らくただネチネチ自分の好みを述べているだけの文章だったでしょうが、
谷崎潤一郎の素晴らしさは、やはり美しい文章です。
美しい文章で美しさを語る、これ以上に説得力のある美しい評論はありません。
それまで、ただただ与えられた環境でものを鑑賞していた私は、
谷崎潤一郎の美意識に触れて初めて、当時の暗さを意識してものを鑑賞するようになりました。
「ファッションは社会が作る」とよく述べているのですが、それも谷崎潤一郎の視点で学んだことのひとつかもしれません。
谷崎潤一郎は私にとって、素晴らしい小説家であり、新しい視点を教えてくれた人物でもあります。

今年、桜の花びらがはらはらと散り、初々しい若葉が芽吹く頃に、神戸に旅行に行きました。
急に計画した旅でしたが、結果的に縦糸と横糸が重なり合うような旅となりました。

倚松庵の外観。庭木にいたるまで当時の風情を再現されています。


その時に訪れた場所のひとつが、「倚松庵」と呼ばれる邸宅でした。
倚松庵は、谷崎潤一郎が1936年から1943年まで居住した邸宅で、
松子夫人やその妹たちを描いた小説「細雪」の舞台としても知られる場所です。
谷崎潤一郎は関東大震災で関西に移住して以来、阪神間に21年間も住んでいたそうですが、
ものすごい引っ越ししまくったそうなんです。
その中でも倚松庵にはかなり長く住んでいます。ずいぶん気に入っていたのでしょう。

ちょっとドキドキしながら、倚松庵の玄関に入ると、受付の女性たちが温かく迎えて下さいました。
ちょっとお話した後で「今日は先生方が集まっていらっしゃるので」と、
飴色の廊下を、背中を押されながら奥の部屋に案内していただきました。
倚松庵の廊下は長いので、ドンブラコと川に流されたような気分でした。
そしてその時、ご案内いただいたお部屋にいらしたのが、
谷崎潤一郎の研究に半世紀もの時を費やされた谷崎文学のスペシャリスト、たつみ都志先生と有志のみなさんでした。
こういう時には、私の厚かましい性格は本当にお得です。
貴重なお話をたくさんお伺いし、知性と話術を兼ね備えたたつみ先生にすっかり魅了された私は、
翌週に東京で開催された文学講座にも参加させていただきました。

2階の西の部屋。『細雪』では雪子の花嫁道具がきらびやかに飾られ、雪子と妙子の旅立ちの対比が際立ちました。

たつみ先生のお話はとにかく面白んです。
時々ちょっと出るちょっとした辛辣さも、西の風を感じる爽やかな弁舌で愛情深さを感じます。
たつみ先生は谷崎潤一郎のことを「転居魔」と仰っており、
作品の世界に没入しながら執筆する谷崎潤一郎と、家との相関関係を解説して下さいました。
具体的な解説を聞いた上で作品を読み直してみると、また違う出汁が出て本当に面白いんです。
そんなたつみ先生が、心血を注がれているのが谷崎潤一郎の邸宅の保存・復興活動です。
さきにご紹介した倚松庵は成功例ですが、実は成功しなかった例もあったのです。

2階の東の部屋。『細雪』の最初のシーンに登場する部屋です。


谷崎潤一郎の命日である7月30日に、
「鎖瀾閣」と呼ばれる谷崎潤一郎邸VR化のクラウドファンディングが始まりました。
発起人はもちろんたつみ先生です。
鎖瀾閣は、谷崎潤一郎が自らデザインを手がけた和洋中折衷の邸宅で、
この家だけが谷崎の3人の妻全員が出入りした貴重な場所だったのだそうです。
しかし、1995年の阪神淡路大震災で全壊。
14年の復元運動の末に費用等の目途が立つも、断念差ざるを得ない事情があり、復元は頓挫。
しかもその後、復元運動に携わられた方々が相次いで逝去されてしまったそうです。
しかし、たつみ先生はそんな受難にも屈せず、鎖瀾閣をVRとして残し、将来に備えようと奮い立たれました。
詳細はクラウドファンディングのページ内で、たつみ先生が自ら動画でお話しされています。
その勇気とド根性に、私は深く感動いたしました。本当に、並みの人間にできることではありません。

アンティークな物や近代建築など、戦前の文化風習について調べていると、様々な事に気付かされます。
まず、戦争の影響。
日本の場合、第二次世界大戦・太平洋戦争での空襲被害。
そして、「欲しがりません勝つまでは」などのスローガンにより実施された、奢侈禁止令です。
この奢侈禁止令では、多くのファッションがかなり細かく規制されています。
その間に失われた物も多かった事でしょう。
それよりも前の歴史を遡れば、明治維新でも大きな変化があります。
それ以外の歴史的事象では、変化は比較的緩やかです。
しかし、その緩やかな変化の中でも、大正時代の関東大震災では色々な変化がありました。
当時は第一次世界大戦の軍需品製造などの影響で経済が回っていたので、猛スピードで震災からの復興が実現しました。
でも、今はどうでしょうか。現代の日本社会では、震災からの復興は難題です。
神戸の街を歩けば、そこかしこで阪神淡路大震災の片鱗を目撃します。
当時、私は子供でしたが、ニュースで見た衝撃的な景色は今でも忘れられません。
そして、私自身も東日本大震災を経験し、東北の方ほどではなくとも、震災の影響を受けた一人です。
恐らく、現代の日本人で、震災をはじめとした災害と全く無縁な人はほぼいないのではないでしょうか。
日本の場合、政治的な事象以外に災害も、文化の継承の妨げになる要因であることは間違いないでしょう。

たつみ先生の活動は谷崎文学においても大変意味のある活動です。
しかし、もっと引いた目で見れば、新しい形の文化継承の試みのひとつでもあると私は感じます。


倚松庵では月1回土日に、たつみ先生の解説付き無料案内があります。



たつみ先生と初めてお会いした翌週に参加した東京での文学講座で、とても印象的だった解説がありました。
それは『細雪』のあらすじを「縦糸と横糸」と表現されていたことです。

『細雪』では姉妹の結婚が縦糸、阪神間の文化や四季が横糸として、まるで織物のような物語が展開されています。
『源氏物語』もこのような形式で物語が展開されており、両者を関連付けた講座となっていたのですが、
「縦糸と横糸」は私個人の、また私以外の別の人の人生にも存在する、繊細で素敵な表現だなぁと感じました。
文化の継承もまた、糸のように紡がれていくものでしょう。
たつみ都志先生のクラウドファンディング、もしよろしければぜひご参加ください。
新しい形の文化継承の担い手の1人になれます。
一口1000円から参加可能です。

阪神淡路大震災で全壊した谷崎潤一郎の旧邸「鎖瀾閣」(さらんかく)を後世に残そう

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