こんにちは、宮寺理美です。
私は着物が好きで、よく好んで着ています。
週末に着物を着る生活を始めて、大体15年くらいでしょうか。
その頃から、「着物を着ていく場所が無い」と言う方を、主にインターネットでよく見た気がします。
私は誰かとつるむのが苦手になってしまい、
好きな時に好きなものを着て好きな場所に行く、という生活にシフトしましたので、
今はもう「着て行く場所がない」という感覚ではなくなりました。
でも、そう思う人がいるのも理解できるな、と感じます。
これは私個人の意見ですが、
「着物はファッション」と言う人が存在する一方、
現代社会においての着物は、ファッションでなくカルチャースクールの科目として扱われる場合が多いです。
以前の記事でも、80年代のカルチャースクールブームについて言及しました。
ここ数年で、SNSやYoutubeなどを利用して着付けの豆知識を発信するアカウントも増えました。
主に他者に着物の着付けを教える「着付け講師」と呼ばれる人が発信しているようですが、
講師として働いているからには、学びの場で教えを乞う人に知識を授けるのが生業でしょう。
着付け講師の方が教える内容は、もちろん着付けの手順やテクニックですよね。
一方、通常のファッションのノウハウ、つまりデザインやコーディネートと呼ばれる作業は、
型(シルエット)を作る作業や、質感を組み合わせ、目的に合った衣服を製造したり、組み合わせを考案する作業であることが多いです。
これらの作業は、着物の「着付け」からは少々離れた内容のように私は思います。
もちろん、全くの無関係というわけではなく、着物という衣服を着用した状態に仕上げるためには、ある程度かぶる部分はあります。
しかし、それは「着付け」、つまり「どうやって着物を着るか」という手法の部分とは、本質的には異なる事だと私は思っています。
そういうフレーズを発信する方々を見ていると、
大体は「ただの耳障りの良いフレーズ」として「着物はファッション」という言葉が多用しているだけのように見受けられます。
「ファッションとは何か」を嚙み砕き、
考えるという工程が抜けてしまっているように見えて仕方がありません。
着物に関しては、型(シルエット)がすでに完成されています。
新しく作るという作業がありません。
型が完成されていると私が断言するのは、
日本社会においての着物は「伝統」と定義される事がほとんどだからです。
伝統は伝統と呼ばれた時点で、すでに形骸化が進んだ状態です。
保護の対象となればそれ以上の大きな進化はほぼしないの一般的なのではないでしょうか。
現状維持が最良の形式だと考える人が圧倒的多数になります。
よって、型を刷新する機会はほぼなくなります。
「着付け」と呼ばれる作業を紐解くと、形骸化された形を完成させる手順でほぼ完了で、
そこに行きつくまでの手順が流派などで多少違うだけ、というのが大方の中身のようです。
最近、ネットフリックスで
「ネクストインファッション」という番組を見るのにハマっていたのですが、
これが本当に勉強になりました。
番組内では常に新人デザイナーたちが服を作り、ランク付けされ、
最終的に勝ち残った人は高額賞金と、デザイナーとしてのチャンスを掴み取る!
というテーマのデザインコンペティションシリーズです。
特に2作目の審査員、デザイナーでありパーソナリティでもあるタン・フランスと、
モデルのジジ・バディットの講評が、私にとってはとても新鮮だったんです。
「ファッションとは何か」を噛み砕き、考える大きなきっかけになりました。
2人は番組中で、度々「新しさ」について語ります。
既に提案されたスタイルに対しては、容赦なく「古臭い」「見たことある」とジャッジされます。
それだけ、最前線では常に「新しさ」や「現代に合う文脈」を求められるのでしょう。
実は私は、ほんの少しだけ、アパレルやメイク関係の企業で働いたことがあるのですが、
アパレル業界もメイク業界も「今年の流行」が業界で大体決まっているんですよね。
「今年の流行」を掲載した業界誌が部内で回覧されるような事もしばしばありました。
最近ではSDGsなども注目トピックになってはいるものの、
それでもやはり、常に新しいものを製造し続け、
売り続けなければ「ファッション」なる世界は無くなってしまいますよね。
先述の着付け講師を自称するSNSアカウントが発信する内容を見ていると、
おそらく「着物はファッション」と断言している人は、
「自分が好きな」という一言が抜けていたり、
大きな主語をSNSでの「バズり」のために使っているか、
あるいは無自覚のまま、言葉を噛み砕く工程をすっ飛ばして使っているだけ。
そのような方がほとんどなのではないでしょうか。
ただ、そのような方々が親切丁寧に、かつ無償で見ることができるコンテンツを、
Youtubeだけでなく、X(旧Twitter)やInstagramをはじめとした色々なSNSで発信している環境は、
本や雑誌を購入しなければ着付けのノウハウが学べなかった私からすれば大変羨ましい環境です。
反面、情報の精査という側面では苦労が多そうだと思う事もありますが、
SNSでは、インプレッション数をあげることで、投稿者が得をする何かが無ければ成立しません。
もちろん、そこには善意や好意も含まれるとは思います。
しかし、多くの場合は名誉への欲であったり、自己顕示欲であったり、
有償のサービスや物品の販売への誘導であったりします。
名誉への欲や自己顕示欲を満足させられる、または、誘導になりうる内容なら事足りてしまうので、
無料コンテンツの質はそれ以上でもそれ以下にもなり得ません。
SNSで事足りてしまう部分があるのは否定できませんが、
「じゃあ、SNSすべてが学べるのか」と言われれば、
「どこで満足するかの妥協点次第ですね」としか、私は言いようがありません。
手軽に最終アンサーを求められるSNSでは、手軽な最終アンサーしか載っていないんです。
また、SNSでは、手軽な最終アンサーがすべてであり、
すべてを無料で知ることができるという思い込みが発生しがちです。
自分の手を動かさないと着られない着物という衣服とSNSは、
あまり相性が良くないのかもしれません。
最近では着付け師を名乗っている投稿者が
着物を着た際のマナーまでコンテンツ化しているのも見かけます。
もちろん、現代日本では実際に着物を着る場面=かしこまった場なので、
着付け師がマナー講師まで務めてしまう方が手っ取り早いのは理解できます。
しかし、着物を着用した際のマナーやの価値観は、
年代や地域差もあり、白黒つかないグレーゾーンのグラデーションも多々あります。
そのため、大きな主語を使用して断言し、
過激な内容で煽ればインプレッション数を稼げるインターネットコンテンツとは、
非常に相性が悪い、と個人的には思っております。
私個人的には、自己顕示欲や名誉欲そのものは全く悪いものではないと思います。
むしろ、そのために努力できる方は素晴らしいです。
また、有償のサービスへの誘導も悪ではないと思います。
問題なのは、そのような環境下だと、自分の欲望を満たすために倫理観や公共性を無視した人や、
自分の利益のために、手段を択ばない人が無数に出現してしまう事です。
しかも、本来であれば「着付け」という大変限定的なジャンルのプロであるはずなのに、
「着物はファッション」からマナー講師まで、
どんどんグレーゾーンが広がりつつあるように思います。
こういう現象は、斜陽産業にはありがちかもしれません。
斜陽産業と言い切ってしまう事には、少々胸が痛いです。
しかし、着物という伝統工芸品が斜陽産業であることは紛れもない事実です。
モノが売れない業界では、次に売るのは大体がノウハウや利権などの無形の財産です。
その次は、「裾野を広げる」という名目での、無形の財産の安売りです。
各種SNSを見ていると、着物という産業はすでにノウハウの安売りの段階に到達しており、
これからは、無償でノウハウなどを共有して得をする人たちが、
有償の領域をどんどん削っていくのが主流になるのではないでしょうか。
しかし、有償でノウハウやマナーまで学ばなければ着られない衣服は、
現代の日本社会にはそぐわないのも事実です。あまりにも非合理的です。
生き急ぐのが当たり前の現代日本人にとって、これほど不便な事はないでしょう。
そのため、着物という衣服は、
長らく非合理や不便を愛する余裕のある人にしか楽しめない趣味でした。
もちろん、それが当たり前のままの方もたくさんいらっしゃると思います。
そういう方のライフスタイルは、大体が人生の経過と共に、大変緩やかに変化するでしょうから、
インターネットで着付けが学ぶ世代との差はずっと埋まらないままかもしれません。
私は1987年生まれです。生まれてから経済的に調子が良い日本を知りません。
幼稚園に通っていたくらいの年齢で、ギリギリ「バブル」の片鱗を見たことがあるくらいです。
私より若い方は恐らく片鱗すら見たことがないでしょう。
着物の世界にありがちな季節やTPOのルールは、
「アレはだめ、コレはだめ」という典型的な原点方式です。
そして、狭い選択肢の中で工夫を凝らすハイコンテクストな文脈を楽しむためのものです。
こういった文化は、細かいものまで凝ったものを買いそろえるのが前提ですよね。
つまり、経済的・物質的に豊かな時代にマッチするように作られたルールです。
その経済水準にいる人なら楽しめるものなのでしょうが、
現代の日本の平均年収は【男性:約482万円 】【女性:約378万円】です。
もちろん、年齢によってもデータは変わるので一概には言い切れない部分もありますが、
豊かさをベースにしたコンテクストを楽しめるだけの余裕がある年収だとは、私には思えません。
近年、SNSでは、新しい着物の形を模索する人が増えているように思います。
もちろん、着物に限定した中なので、増えているとは言ってもだいぶ極地的ではあります。
彼ら・彼女らは多くの場合、普段の自分のファッション=洋服と着物の混合を試みているように見えます。
しかし、混合の結果、着物である必要性すらなくなってしまっている例も少なくないようです。
「型」の部分が現代の実情に合っていないというのは、文化継承という意味ではだいぶ厳しいんだな、と痛感します。
豊かさに根差したコンテクストを維持するには、その経済水準を維持しなければなりません。
もちろん、豊かさを失えばそのコンテクストは楽しめません。
一方で、着物を好きな人が増えているんじゃないだろうか、
という感想もSNSを中心に見かけるようになりました。
大変喜ばしいことだな、と思います。
しかし、現実世界では、着物姿の人を見かける回数は私は減ったように感じます。
観光地のレンタル着物ユーザーは増加傾向のように思いますが、
これらは大体が海外資本のレンタル着物店です。
これらのメイン顧客は観光地で着物を着る体験をしたい若い女性や観光客なので、
着物が好きな人とはちょっと層が違いますよね。
着物が1番売れていた時期のコアな年齢層の高齢化で、
着物から遠ざかってきたのが原因のように感じます。
SNSにはアルゴリズムが存在するので、そのユーザーが好む情報が優先的に表示されます。
そのため、まるで愛好家が増えたかのような錯覚を引き起こすのかもしれません。
結局のところ、インターネットで見られる範囲内の情報はある程度決まっています。
SNSのように、ユーザー登録をして使用できる無料のプラットフォームは、
ユーザー数が増えれば必ずと言っていいほど広告利用されます。
そのためアルゴリズムが設定され、
広告を効率よくユーザーに表示させることで収益をあげます。
このような手法は何もSNSに限った事ではなく、
雑誌やテレビや街頭広告などでも同じ事ですが、
SNSに関して言えば、幅広く色々な情報を取り込んでいるつもりでいるユーザーが多いので、
「社会」という引いた視点を失念してしまう人が多いように私は思います。
無料で情報収集し、誰かに答えを教えてもらい、
自分と同じものを愛好する人が優先的に表示されるSNSおよびインターネットの世界では、
考える、実行する、自分で自分のことを決める、というような、
当たり前のことも忘れてしまいがちですね。
かくいう私もじゃんじゃんSNSを更新しますし、
SNSが大好きなので、SNSやインターネットを開かない日はほとんどありません。
しかし、当たり前のことは見失わないように日々心掛けながらSNSを使っています。
私のことをフォローしてくださっている方にも、
自分で考えるという当たり前の事は忘れないでほしいな、と思います。
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