こんにちは、宮寺理美です。
前回「着付けの近代」の個人的な研究結果について、明治~大正時代編を書きました。
今回の記事はそちらの記事の続きとなります。
前回の記事はこちら。
今回は昭和時代に突入します。
とは言え、大正時代は14年ほどしかなかったので、
昭和時代の初期頃は大正時代の雰囲気とさほど大きな差は無いかもしれません。
ただやはり、ファッションの点で言及するなら、
昭和初期になってから洋装の記事がかなり多くなります。
断髪洋装のモダンガールと言えば大正時代のイメージをお持ちの方も多い印象ですが、
実際に一般女性に洋装が浸透し始めるのは、昭和時代になってからです。
少し話が逸れてしまいますが、
建築学者、民俗学研究者の今 和次郎さんという方が書いた「考現学入門」という本に、
銀座で行った路上服装調査のデータが掲載されています。
男女別に、100人中何人が洋装・和装だったかの記録が取られています。
大正14年:洋装の男性は100人中67人、女性は100人中たったの1人
昭和元年:洋装の男性は100人中70人、女性は4人と、少々増えます。
昭和5年:男性は100人中88人、女性は100人中14人、
これが昭和16年になると、女性も100人中75人が洋装になります。
今 和次郎さんは、1923年の関東大震災後に都市部の観察や採集を始めた風俗研究家です。
個性的な経歴の方ですが、こちらの本もすごくユニーク。
割れ茶碗のスケッチなどが載っていてとても面白いので、
もし興味のある方はぜひご覧になってください。
さて、このような潮流の中、社会における着物の立ち位置にも変化があったと考えられます。
女性向けの雑誌の中でも、洋装の割合がどんどん増えていきます。
昭和5年 婦人俱楽部十月號
二寸は高く見える着附の工夫 山本久榮
こちらの記事を書いた山本久榮さんも、日佛整容大學(日仏女子整容学校)の園長で、
学校機関における技術者の養成に貢献した人物なのだそうです。
学校の情報は、残念ながら見つけることができませんでした。
出典:名古屋大学学術機関リポジトリ 戦前期の学校における女髪結及び美容師の養成について 倉田研一
こちらの記事では、仕立て方や柄の選び方を工夫して、立ち姿を美しくするアドバイスの他に、
着付けに関してこんな記述がありました。
衿もとから肩つきをすんなり見せること、帶から下をすつきりと長く見せるといふ事が一番大切な呼吸なのでございます。
昭和5年 婦人俱楽部十月號 二寸は高く見える着附の工夫
裾の合せ方から申しますと、裾はまくれる様に長く来てはをかしうございますが、
疊とすれすれ位に裾を決めて、下前はやゝ上がり氣味に裾さきを斜めに折って合せて、
上前も五分ほどあげて合わせますと、
斜めに軟かい線が二三本出るやうになつて大變形がしなやかに見えます。
腰ひもは普通、腰骨の上にしめますが、背の低い方はそれよりも上目にしめます。
お端折りをすつかり下して衿を合はせるのですが、袷ものゝお端折りは全部下すとかさばりますから、
下前だけ折り込んでしまひます。
お端折りすっきりテクニックがここにも登場しました。
半衿は三河木綿の心を入れてしつかりさせて置きます。
昭和5年 婦人俱楽部十月號 二寸は高く見える着附の工夫
着物でもしなやかな生地のものは半紙を四つ折りにしたのを、三衿に入れておきますと、
衿がきちんとなつて、よれたり皺になつたりする様な事はございません。
これまでの時代で衿芯について言及した記事は無かったのですが、
ここで現代でも使われている「三河芯」が登場しました。
現在は襦袢の襟に差し込むプラスチックやメッシュ素材の衿芯が一般的ですが、
三河芯とは、布衿芯とも呼ばれる物で、自分で縫いこみタイプの衿芯です。
洋髪の時でも衿は少しぬいて合せ、頸の長い方は半衿も廣く出して頸にかき合はせますが、
昭和5年 婦人俱楽部十月號 二寸は高く見える着附の工夫
肩の張った人は着物の衿を半衿から少しずらして
頸へまかずに胸に向けて合はせる様にいたしますと、肩つきがよく見えます。
明治時代から大正時代の着付けの記述では、
衿をきっちり合わせるアドバイスが多かったように思うのですが、
ここで「体系に合わせて衿を決める」というアドバイスが登場しました。
可愛いイラスト付きです。
着付けの話からは少し逸れるのですが、
当時の女性向け雑誌によく「ファインゴム」という商品の広告が掲載されています。
そんなに身長高くしたかったのかな…と思っていたのですが、
身長を高く見せる着付け指南が雑誌に掲載されていますし、
当時の女性たちにとっては意外に切実な悩みだったのかもしれませんね。
現代には残っていないので、ゴム製品の売り込みを頑張っていただけの可能性もありますが。
3年後にも、山本久榮さんの記事が掲載されていました。
昭和8年 婦人倶楽部五月號附録
美人になるには 山本久榮
こちらは着付けだけでなく、
化粧から髪型からかなり細かい内容が掲載されているので、
とても読み応えがありました。
機会があれば髪型や化粧の記事も書きたいと思います。
こちらも少々内容が細かいので、
掲載内容をまとめてみました。
胸元を細つそり見せる着附け方
・お乳バンドで苦しくない程度におさえておく
・ガーゼを三尺位用意して、一巾のまま苦しくない程度に巻いて、胸の恰好を整える
「お乳バンド」というインナーがここで初めて登場しました。
「お乳バンド」の可愛いイラストがあったのですが、
どうやら現代で言うブラジャーのようです。
胸元をふつくりさせる着附け方
・肌襦袢を着てから、その上から八尺ほど、晒木綿なら七尺くらいのものを半分の幅に折り、胸に巻く
・半衿の芯を厚めにする
・衿を立てずに深めにふっくりと合わせる
・伊達巻の下の仮紐はあまり上ではなく胸下でしめる
・長襦袢の衿芯は繻子を入れるとしなやかでしっかりする
・伊達巻はまずおはしょりを決めて、その上から段々と上に巻き、帯いっぱいに巻く
・伊達巻の両端に一尺五寸くらいの紐を付けておいて結ぶ
・おはしょりの下の端を折り返して、上前はおはしょりを出す部分を決め、
余りは伊達巻の下になるように一旦上に寄せ、紐でおさえて、伊達巻を巻く
・衿下を両手で持ち、立褄を前で合わせて背縫いをまっすぐにし、
右手の方(下前)を左の腰骨のところに持っていき、そこで褄先を五分ほど上げ、
巾の余りは折り返す。
上前を右の腰骨のところに持っていき、これも褄先を五分ほど上げ、腰紐をしっかりとしめる。
・洋髪の場合は衿を三角に抜き、襦袢の半衿も割合縦に合わせて衿を広く出し過ぎない様にする
・日本髪の場合は衿を丸味を持たせて抜き、半衿は広く出す
今までは具体的な補正の方法は登場しなかったのですが、
ここで体型補正などのの記述が登場しました。
可愛いイラスト付きで、詳細な説明が掲載されています。
昭和10年代から20年代にかけての本も収集を試みたのですが、
もう少し資料を厚くしたいところなのですが、なかなか手に入れることができずに今に至ります。
残念ながらもう少し時代を進めて、昭和30年代に突入します。
昭和33年1月発行 若い女性新年号付録
和服と洋服 若い人のきもの
雑誌の表紙がぐっと現代的になりましたね!
出版所は大日本雄弁講談社、現在の講談社です。
この本で想定している「若い人」とは、20代くらいの独身女性のようです。
基本となる着付け
村井八寿子
こちらの村井八寿子さんは、昭和年代に活躍した美容師の方で、
婦人向けの雑誌などでよく記事を執筆されていた方のようです。
最近は、洋服と同じように和服も美しい線が求められ、
昭和33年1月発行 若い女性新年号付録 和服と洋服 若い人のきもの
帯の巾を細くし、おはしょりの丈をつめたりして、
腰から下への線の長く美しいことが強調されてきております。
こちらの雑誌の冒頭には、こんな写真が掲載されていました。
これまでの時代のような体にふんわり纏うスタイルではなく、
洋服のシルエットの影響を受けたのか、ウエストや足の長さを強調しているようです。
「着付けに必要なもの」では、現在もよく使われる小物類が紹介されていました。
着付けの記述に関しても、かなり現代に近づいてきています。
美しく上手な着付け
昭和33年1月発行 若い女性新年号付録 和服と洋服 若い人のきもの
長襦袢の着方
特に注意しなければならない急所は、衿と裾です。
衿については、自分の感じに合う衿の線を研究して、
その時の着物の味わいと、着ていく場所とを考慮に入れて衿の抜く程度を決めましょう。
こちらの雑誌に登場する女性たちの着付けを見てみると、
全体的に現在の着付けよりも衿は詰め気味、帯も少々細いような気がします。
美しい装いのための下着
昭和33年1月発行 若い女性新年号付録 和服と洋服 若い人のきもの
特にバスの大きい方は、和服の場合ややもすると品がなくなったり、上半身が重く背も低く見えて、
すっきりした線をこわしますので、山のない和服用のブラジュアをしてください。
②図のような形に晒布を二重にして十三センチ(三寸五分)くらいの巾で、長さはバストの寸法より詰め加減にします。
ここで初めて、今で言う和装ブラのような物が登場しました。
図を見る限りだと、手作りを推奨しているようですね。
もっとも、最近の洋服の感覚でモダンに細い帯をずっと下にしめる場合は、
昭和33年1月発行 若い女性新年号付録 和服と洋服 若い人のきもの
洋服のときのブラジュアでもよいのですが、
普通和服の場合の胸のふくらみは、洋服の場合よりずっと上にあった方がよいのです。
「洋服の感覚」という言葉が出現していらっしゃいますが、
この年代の女性向け雑誌では、よく着物と洋服の融合の試みが見受けられます。
洋服と同じ生地で着物を作ったり、シルエットを洋服に寄せてみたり。
こちらの雑誌にも紹介されていました。
シルエットが改変された着物は、残念ながら現代にはあまり残っていませんが、
ポリエステルやコットンなどの着物は、この時代の試みの成果なのかもしれませんね。
補正具の使用方法やお端折りの取り方などの図解も掲載されていました。
背中にダーツを取る着付け方法も、まだ現役のようです。
村井八寿子さんは、4年後に婦人倶楽部でも着付けの記事を書かれていました。
昭和37年 婦人倶楽部2月号付録
基礎を中心にした独習所 和服と和裁
ひとりで着られる和服の着方
着付け指導 村井八寿子
「背中のダーツ」の映っている写真が掲載されています。
少々時代を進めて、昭和40年代になっても、
このような若い女性向けの着物の専門誌が発行されていました。
昭和45年 増刊女性セブン 9月5日号
きもの選科
表紙の女性のメイクからも、トレンドの変化が見てとれますね…!
こちらの雑誌には、体型別の補正の方法が紹介されていました。
これまでの年代と比較すると、かなり補正が厚くなってきたように思います。
ここから先の年代の事を書くにあたり、もうひとつ付け加えるべきことがあります。
1974年(昭和49年)に朝日カルチャーセンターが登場して以来、
バブル崩壊後の1990年ごろまであったと言われる、「カルチャーセンターブーム」です。
出典:東京大学学術機関リポジトリ カルチャーセンター研究史 : 生涯学習・社会教育研究における趣味講座の位置づけをめぐる試論的考察 歌川光一
第二次世界大戦の終結は1949年です。
ご存じの通り、戦時中の日本では「もんぺ」が女性の国民服であり、
「白い割烹着」は国防婦人会の制服でした。
「ゼイタクは敵だ」の時代からの反動もあったことでしょう。
また、カルチャーセンターで得られる教養は、必ずしも実践的な教養ではなく、
あくまで「自分の人生を豊かにするための教養」も多かったことと思います。
実際に、私に着付けを教えてくれた私の母も、
「独身の頃、公民館で開催されていた着付けの講習に参加した」と話していたのを記憶しています。
また、バブル崩壊以前の日本の女性観にも、
カルチャーセンターは相性が良かったのではないでしょうか。
現代の着物も、まるで学校の科目のように扱われる機会が多いですが、
「着付けのレッスン化」は、恐らくこの時期に発生した現象なのだと思います。
経済産業省 和装振興研究会
2021年11月16日の開催資料「資料3 きものの商慣行に係る議論の経緯について」によると、
1世帯あたりの着物の購入数量は昭和40年代がピークとのことでした。
(こちらの統計資料の出典は矢野経済研究所「きもの年鑑」です。)
先日書いたブログ記事でも、終戦後からの成人式の発足と、
成人式に参列する女性たちの着物がどんどん派手になっていった、という経緯も書きました。
さきほどご紹介した雑誌も、
若い女性向けに限定して、わざわざ着物の雑誌を刊行するほどの市場があった、
と受け止めてもよいかと思います。
このような第二次世界大戦を経た時代の変化の中、
着物の着付けは実践的なファッションのノウハウからどんどん遠ざかった事でしょう。
実際に、昭和50年代以降の着付けの記述を雑誌などでも探してみているのですが、
まだ見つけることができていません。
この時代になると、着付け教室の教則本や、成人式の振袖の雑誌になってしまうんですよね…
昭和51年 着付け講座 きつけ講座テキスト1 実習編
日本和装会
日本和装会は、無料着付け教室を声高に謳いつつ事業内容は「販売促進代理業」の企業です。
創業は1981年(昭和56年)です。
出典:日本和装ホールディングス株式会社 沿革
※念のため付け加えますが、日本和装ホールディングス株式会社については、
ここ数年で企業倫理を疑うようなニュースを何件か目にしており、
個人的には「タダより高い物はないですね」という感想しか持っておりません。
平成元年 和装美 京都きもの学院
京都きもの学園の創業は1971年(昭和46年)です。
出典:京都きもの学園 沿革
こちらの2冊の本は現在も営業されている着付け教室なので、
詳細な着付けの内容の引用は控えさせていただき、
基礎的な考え方の記述を一部引用させていただきます。
体型づくり
きものは平面的な布地を体にまとうものですから、
平成元年 和装美 京都きもの学院
洋服のように凹凸のはげしい体よりすんなりした丸さ、直線に近い曲線が必要とされ、
またそうでないと美しくみえません。
こちらの教則本の中では、この言葉を実践するように、
腰ぶとん、タオル、和装用ブラジャー、衿下マット等
厚めの補正具を使用した着付けの詳細が掲載されていました。
また、「背中のダーツ」と呼ばれていた箇所は、この時代には無くなっていました。
2つの記事に分けて、日本の近代化と共に変化した「着付け」の変化をまとめました。
着物の着付けについては色々な言説があると思います。
しかし、私は「時代に区切ってすべてを言い切ることはできない」というのが答えだと思っています。
今回は雑誌などの書籍をベースに解説を試みましたが、これは本の中だけの事で、
実際には都市部とその他の地域で差があったり、
同じ時代を生きていた別の年齢層の人の間でもグラデーションがあったり、
流行に敏感な人とそうではない人がいたり、
教育として推奨したい事の方が本には掲載されがちだったりますよね。
着物の場合は、大正時代以降から「ビジネスツールとしての利用」が目立ったな、という印象でした。
それだけ、美容やファッションは大きな市場だったのでしょう。
長い長い記事になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
それでは、またお会いしましょう。
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