こんにちは、宮寺理美です。
2024年2月現在、ウクライナ出身で日本国籍保持者の方が「ミス日本」を受賞し、
「日本人らしさとは何か」と議論になっている今日のころごろです。
続報で受賞者の方のスキャンダルが報じられたり、何かと話題になりましたが、
この件の本質である、
「日本人らしさとは一体何なのか」という点を考えてみたいと思います。
私は少し特殊な環境にいると思います。
2018年に中国のSNSアカウントを開設したらなぜか大バズりし、
その縁で中国はじめ海外出身の友人が大変増えました。
中国系企業に1年ほど勤めたのも、
SNSで得た「珍しいことに挑戦するチャンス」でした。
日本人は私1人だけという環境で仕事をしたのは、今となっては貴重な経験です。
日本出身で日本にいながらにして、こんな経験ができる人間は、
きっと少数派だと思います。
中国系企業で働いた1年間、私は常に「異物」でした。
在日華人のコミュニティにいる人は、日本人と付き合わない人も多いです。
日本人と付き合いたくないだとか嫌いだとかいう理由ではなく、
「特に用事がない」という感じの人が多いように思います。
幸い、日本語は堪能なスタッフが多く、
中国出身の同僚たちは天性の人懐っこさを持った人ばかりでした。
しかし、深く付き合えば付き合うほど、
「理美って日本人っぽくないよね」と言われる回数が増えていきました。
私個人的には、私は大変日本人らしい日本人だと思っています。
なので、これに関しては「そんなことないよ」と毎回否定していました。
しかし、ある時ふと気が付いたのです。
これは、私が日本人らしくないのではなく、
彼らが思っている日本人と私にイメージの乖離がある、しかも「ちょっと違う」んです。
この「ちょっと」がポイントだとも思います。
全然違えば「日本人じゃないだろ」「嘘つくなよ」くらい言われます。
(それが冗談として笑えるくらいの関係性は築けていたと思います。)
このような話をすると、中国出身の友人、
特に女性からは共感される事が多いです。
彼女たちもまた、周囲の日本人が思う中国人らしさが、
中国人である自分自身からはかけ離れている事を感じる機会が多いようです。
このような現象が起こりうるのは、日本と中国が文化的に近しいというのも関連しているのかもしれません。
例えば、アメリカやヨーロッパなどのキリスト教圏、またはイスラム教圏なら、
まず全体的な理解の乏しさから、
「●●人らしさ」という概念にたどり着いてすらもいないでしょう。
ステレオタイプな●●人のイメージとは、つまるところ解像度の低い理解に他なりません。
外部の人間の中にぽつんと1人、異物として混ざって仕事をした経験から、
今まで当たり前すぎて疑問にすら感じなかったことを感じるようになりました。
民族、国籍、自分が属するコミュニティやそれらに対する帰属意識、
それらは似ているようで異なるものです。
でも、これらを分けるのは血統や育成環境だけではないような気がしました。
そもそも「民族」と称されるものについて、きちんと学んだことがなかったな、と感じ、
理解を深めたいと思うようになったのも数年前です。
そんな時、1冊の本に出会いました。
著者は自然人類学者である片山一道氏。専門は先史人類学・骨考古学だそうです。
骨考古学!この本を手に取って初めて知ったジャンルでした。
この本では「日本人らしさ」などというフワフワした観念ではなく、
逃げも隠れもできない、人間の一部である「骨」という物から、
日本人とは何かを解き明かしています。
実は縄文人は南方からやってきたのではない、
大陸から渡来した弥生人が縄文人を駆逐したというは真実ではない、等々。
2「身体史観」の挑戦(旧来の日本人論の誤りをただす 旧来の歴史観はどこが誤っているのか)
特にこの章では、私が述べたような根拠が曖昧で精神論的な「日本人」について指摘しており、
とてもエキサイティングでした。
文中には司馬遼太郎氏の『街道をゆく』で多用される、
「大和民族」というワードにも触れているのですが、
骨考古学に基づいた前半の記述を読んだ後だと、
どれだけ薄っぺらい概念なのかが分かってしまいます。
これには恐ろしさすら感じました。
司馬遼太郎氏の作品は大和民族としての精神性を強調し、
それを感じ取れる人が得も言われぬ快感を享受できる文学だと個人的には思っています。
私もその快感を享受する素地のある人間の一人なのですが、
読んでいて本当に気持ちがいいんですよね。
だからこそ、その気持ちよさの正体の薄っぺらさからは
目を背けたい気持ちも少々ありました。
しかし、この本を読んだらもう認めるしかありませんでした。
日本人による日本人像の大半は幻想です。
血統や民族などという具体的なもので解き明かそうとすれば、
日本人という概念は根幹から揺るぎます。
しかし、日本人という概念も微塵を感じずに生まれ育つ人間はいないことでしょう。
精神面というものだけでそれらを支えられる事自体は、大変稀有な事なのかもしれません。
さて、冒頭の件に戻ります。
今回の件はSNSで知ったのですが、それと同時に右翼的な思想の基盤である「八紘一宇」という言葉を知りました。
(私はこのような言葉にはあまり聡くなく、不勉強でお恥ずかしい限りです。)
私なりに要約すると、日本国籍保持者はすべての物が天皇陛下の赤子であり、
等しく大日本帝国民だ、という思想の言葉なのだそうです。
時代から考慮すれば、植民地支配が普通だった時代なので、一見先進的な考え方のようにも思えます。
しかし、この思想を基盤に日韓併合を推し進めているので、
手放しに賛同するのは個人的にはちょっと危険だと思います。
前述したように、民族的なルーツを徹底的に重要視すれば、
日本人という概念が消滅してしまいかねない事情を考えれば、
このような思想は確かに必要だったのかもしれません。
インターネットでウクライナ出身のミス日本に日本人論を振りかざすネットユーザーの大半が、
本物の右翼的な思想を私と同レベルくらいでしか知らなかったのではないか、
というのも簡単に思い至ります。
このような思想の上で考えれば、
日本国籍を保持する彼女も立派な天皇陛下の赤子の一人ということになります。
しかし、彼らの日本人論の正体は恐らく「個人的な違和感」であり、
その根源にあるのも個人の価値観や経験でしょう。
大半の人は外部の人間だらけの場所で
「日本人ってなんだろう?」などと自問自答する機会はありません。
日本人という民族の概念を形成しているものの正体すら自覚がないまま、
日本的な美しさとは何かを断じるのは恐らく不可能です。
受賞者の女性のインタビューなどを少し読んだところ、
ご自身は5歳からずっと日本で育っているのだそうで、
見た目とのギャップにずっと悩んでおられたとの事。ご苦労もされたのでしょう。
容姿という外部の人間からも分かりやすいギャップをお持ちなら、
容姿を評価する場に出るのは、自然な事なのかもしれません。
アイデンディディと容姿、そして国籍などなど、不一致があればあるほど、
それを持て余して悩む機会も多いことでしょう。
多様性が叫ばれる昨今ですが、そのような各個人の持て余したアイデンディディや苦労を
「多様性」などと素敵な言葉に言い換えているだけの事も多いように感じます。
また「無理解」や「不寛容」を責め立て、
それを利用してインプレッション数を稼ぐ浅ましいメディアばかりで、本質を考える機会はまだまだ少ないのが現状ではないでしょうか。
多様性の「サンプル」として提示されるタイプの人々も、ステレオタイプ化してきています。
それは多様性を受け入れる側の人が想定できる範囲内の多様性であって、
それは多様性ではなく「限界値」です。
ミス日本を受賞された方は、
そういった「限界値」のサンプルとして、ちょうどいい人材でもあったのではないでしょうか。
ミス日本は内面性を重視したミスコンテストだと謳っているそうですが、
私にはそんな風には全く思えないんです。
また、無理解や不寛容を乗り越えるコストを払うのは誰かというのも、
同時に解決しなければならない問題であるはずです。
メディアもこのような主張をする方々も、コストには言及しません。
主張した張本人や媒体はコストを一切払わず、
社会全体にコストを払うことを押し付けるのでは義理も道理もありません。
また、そのような人々が唱える寛容は悪人に利用されやすい事も考慮するべきです。
暴力や加害、搾取を受けるのは、社会的弱者や力の弱い女性や子供であることも
決して忘れてはいけない点です。
多様性とは髪や肌の色などの外見的な要素だけではなく、
他人のアイデンティティの不一致にどう対応するか、も含まれています。
自国の国民である日本人が何かという概念すら明確でないのに、
多様性など受け入れられるはずもありません。
今回の件でもうひとつ感じたのは、
出場者の容姿を審査員が審査してランク付けをするという「ミスコン」というシステムそのものが、
令和の現代にはマッチしなくなってきているのに、
「うちは内面も重視しています!」という後付けの言い逃れでまだ続けている現状です。
ミスコンって、成績上位者には賞金や何かの大舞台に出られる機会が与えられますし、
出場者はお金を払ってウォーキングのレッスンなどを受けますし、
ヘアメイクも有料の場合もあります。
ミスコンそのものが出場者からお金をもらうビジネスですし、
「ランク付けを公開する」という形のエンタメでもあります。
このようなエンタメの結果に群がる人々が、
審査員の資格もないのに出場者の容姿をあれこれ判定し、
国籍やアイデンディディなどの個人の繊細な問題にまでインターネットで言及するのは、
そもそもミスコンというエンタメ自体にこのような背景があるからだと思ってよいでしょう。
このような事がきっかけで「日本人らしさ」が話題になるなんて、
なんだか皮肉だなぁと個人的には思います。
容姿が最重要項目の仕事(例えばモデルなど)が存在するのは周知の事実です。
しかし、容姿が最重要であるにも関わらず明言を避け、
その上でランク付けの段階をエンタメ消費するのは明らかに時代遅れでしょう。
各個人を「●●人」たらしめる要素は一体何なのか。
個人によっても国・地域によっても、また年齢や性別によっても違うかもしれません。
日本以上に、血統を重要視する国・地域もたくさんあると思います。
ヨーロッパ諸国に対して、血統について寛容なイメージを持つ方も多いかもしれませんが、
私が話を聞いて回った限り、そうとも限らないようです。
ある意味、日本は血統に関してはかなり緩い認識しか持っておらず、
精神面での根拠を持つ人が多いのは、
引いた目で見れば珍しいのかもしれません。
このような根拠のない自信は、先人たちが築いた文明の中で培われた価値観であり、
外部からやってきた人間と接する機会ができてから、
初めて己が何者かを考え始める人もきっと多い事でしょう。
もちろん、私もそのうちの一人です。
「日本人らしさとは何か」とは、引いては「自分らしさとは何か」であります。
私が日本生まれの日本人であることはゆるぎない事実の一つであり、私という人間の一部だと、
SNSを通して今でも毎日実感し続けています。
コメント